日本列島の古墳時代と同じ頃、朝鮮半島の南部に存在していた王国群の総称である「加耶」。互いに協力し、時には競い合いながら活躍した「加耶」のなりたちから飛躍、滅亡までの歴史を明らかにする展覧会がはじまりました。
会場入口
考古学的には金官加耶や大加耶、小加耶、阿羅加耶などの国々が確認できる加耶。3~6世紀には、東の新羅や西の百済、海を挟んだ古代日本の倭、中国との交流を通して成長を遂げます。
(手前)加耶の甲冑 伝 金海退来里出土 4世紀 大韓民国国立中央博物館蔵
加耶が何を成長の礎として、どのような文化を育んでいたかわかるものは大きく4つあることが分かります。重厚で華麗な武装を整えたこと、鉄生産と交易の運営、華麗な加耶土器の生産、そして加耶の諸国それぞれの特色ある王陵群の営みです。
Ⅰ 加耶を語るもの 加耶土器の美
さかんに生産された鉄製の武器や武装具、馬冑などは墳墓に副葬されましたが、これは常に戦いに備える必要性があったことを感じさせます。
会場風景
古代東アジアの中でも、加耶は墳墓にその歴史がよく反映されている社会のひとつです。 墳墓の規模や形、副葬品その移り変わりから、加耶の成立から発展を読み解くこともできます。
展示風景
4世紀に力を誇った金官加耶は、古金海湾と呼ばれる湾を掌握し、東アジアと交流を重ねました。鉄の生産も盛んに行い、交易品として活用します。
龍や鳳凰、虎などの動物が施された腰に巻く帯に取り付けられる帯金具は、中国東北部や朝鮮半島、そして日本列島にも点的に広がっていきました。
Ⅲ 加耶人は北へ南へ
5世紀頃、高句麗の攻撃で金官加耶が弱体化すると、内陸の大加耶が加耶の盟主となります。 479年、大加耶の王「荷知」は中国南斉に使者を派遣。百済や新羅、倭とも密接な交流を積み重ね、政治経済的な力をアピールしました。
各地の墳墓から出土する大加耶系の金銀のアクセサリーや装飾大刀は、大加耶の社会統合の意図が込められています。文物も副葬されていることから、倭との王権同士の繋がりもわかります。
Ⅳ 加耶王と国際情勢
6世紀に入ると、新羅や百済が加耶の統合をもくろみますが、巧みな外交術を駆使することで、生き残りをはかります。
しかし徐々に苦境に立たされ、532年に金官加耶が、562年には大加耶が新羅に降伏。加耶は東アジアの表舞台から姿を消すことになりました。
小加耶の墳墓に副葬された新羅の土器 固城内山里8号墳主槨 6世紀前半 大韓民国国立晋州博物館蔵
562年に滅亡した加耶。加耶史と現在の関わりを考えるきっかけとして、山清生草(サンチョンセンチョ)9号墳を紹介するスペースもあります。
この古墳は倭の儀礼に則って葬送が行われましたが、墓地の中で現地の人々の墓と混在して営まれています。倭の人々が加耶へおもむき、現地の人々と交流を積み重ね、時には「雑居」するような状況が生まれたことを示す貴重な資料です。
会場風景
加耶との交流を通して、倭の社会や文化も大きく発展したことも感じられる展覧会。福岡の九州国立博物館へ巡回後には、海を隔てた大韓民国国立金海博物館でも特別展が開催される予定される予定です。
[ 取材・撮影・文:坂入 美彩子 2022年10月3日 ]