「冨嶽三十六景」などで知られる浮世絵師、葛飾北斎。高い人気を誇りますが、当然の事ながら同時代の浮世絵師は北斎だけではありません。
北斎の作品に加えて、歌川広重、東洲斎写楽、溪斎英泉、歌川国芳など「北斎のライバル」にも焦点を当てる展覧会が、太田記念美術館で開催中です。
太田記念美術館「北斎とライバルたち」会場風景 本展から畳のスペースが無くなりました
展覧会は1章「富士山対決」から。北斎が「冨嶽三十六景」を描いた後、歌川広重、国芳、国貞らも富士山をテーマにした揃物を次々に発表しました。
歌川広重《冨士三十六景 はこねの湖すい》は、北斎《冨嶽三十六景 相州箱根湖水》と同様に芦ノ湖から眺めた富士山を描いた作品ですが、広重作品の方が臨場感があるように見えます。広重は実際に箱根を訪れたことがありました。
(左から)葛飾北斎《冨嶽三十六景 相州箱根湖水》天保元~4年頃 / 歌川広重《冨士三十六景 はこねの湖すい》安政5年4月
2章は「役者絵対決」。北斎の画業のスタートは、役者絵の第一人者だった勝川春章への入門から。若き日には数多くの役者絵を手がけましたが、兄弟子ほどの評価を得ることができないまま、勝川派を離脱しています。
春章の一番弟子だった勝川春好は、北斎にとってトラウマといえる人物です。春好は北斎が描いた看板を目の前で打ち捨てた事があり、北斎はその屈辱を晴らすべく懸命に修行をしたと伝わります。
ただ、勝川春好は横暴なだけではありません。写楽が得意とした役者の大首絵を、写楽より8年も前に創案するなど、絵師としての実力も持ち合わせていました。
勝川春好《三代目瀬川菊之丞》天明8~寛政2年頃
3章は「美人画対決」。北斎は30代の終わり頃から50代頃にかけて、肉筆による美人画を数多く描いています。この章では北斎と同時期に活躍した美人画の名手の作品が並びます。
窪俊満は北斎の3歳年上とほぼ同世代。北斎よりも一足早く、天明年間(1781〜89)末期から肉筆美人画に取り組んでいます。
(左から)葛飾北斎《風俗三美人図》寛成10年頃 / 窪俊満《ニ美人遊歩の図》寛成期
4章は「風景画対決」。20代から風景画に関心を示していた北斎。70歳を過ぎてから「冨嶽三十六景」や「諸国瀧廻り」などの傑作を生み出しました。
歌川広重の《木曽海道六拾九次の内 上ヶ松》は、北斎の《諸国瀧廻り 木曽海道小野ノ瀑布》と同じ滝を描いた作品。画面の向きこそ違いますが類似点が多く、北斎作品を意識していた可能性が高いと思われます。
(左から)葛飾北斎《諸国瀧廻り 木曽海道小野ノ瀑布》天保4年頃 / 歌川広重《木曽海道六拾九次之内 上ヶ松》天保7~8年頃
5章は「武者絵対決」。北斎は40代頃に「仮名手本忠臣蔵」の揃物や、曲亭馬琴の読本の挿絵などを描くなど、武者絵も得意にしていました。
武者絵といえば「通俗水滸伝豪傑百八人之一個」で地位を確立した歌川国芳。国芳も北斎の作品を見ながら、自らの作風を模索していったと思われます。
(左から)葛飾北斎《鎌倉の権五郎景政 鳥の海弥三郎保則》天保4〜8年頃 / 歌川国芳《通俗水滸伝豪傑百八人之一個 出林龍鄒淵》文政末〜天保前期頃
最後の6章は「次世代への影響」。北斎は次世代の絵師にも影響を与えました。
大阪の絵師である春婦斎北妙は、北斎の「冨嶽三十六景」からほどなくして、縮小版の複製版を制作しています。
(左から)葛飾北斎《冨嶽三十六景 下目黒》天保元〜4年頃 / 春婦斎北妙《冨嶽三十六景 下目黒》天保4〜5年頃
特に“没後○年”などのメモリアルイヤーではありませんが、今年は東京ではサントリー美術館で「大英博物館 北斎」展、九州国立博物館でも「特別展 北斎」と、北斎の大規模展が目白押し。改めてその高い人気が実感できます。
展覧会は5月22日(日)までの前期と5月27日(金)からの後期で、全点が展示替えされます。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2022年4月21日 ]