感情をぶつける描写で日本にもファンが多いフィンセント・ファン・ゴッホ。理想の絵画のために南洋に乗り出していったポール・ゴーギャン。二人の関係といえば「耳切り事件」が有名ですが、本展では前後も含めて両者の関係を紐解いていきます。
第1章には両者の初期作品など。あわせてファン・ゴッホが敬愛していたミレーや、ゴーギャンが師と仰いだピサロなども紹介されています。
両者ともスタートは比較的遅く、ファン・ゴッホが画家になる決意をしたのは27歳、アマチュアだったゴーギャンの最も古い絵は25歳の年です。ともに初期の作風は、後年とはかなり異なります。
第1章「近代絵画のパイオニア誕生」ゴッホがパリに渡ったのは1886年。ゴーギャンは田舎での制作を求めてポン・タヴェン、さらにカリブ海のマルティニク島にも滞在します。両者は1887年、ファン・ゴッホが開いた展覧会場で初めて会ったと考えられています。
第2章で目を引くのは、ファン・ゴッホによるふたつの自画像。ともにパリ時代に描いた作品です。両者の間は数カ月しか経っていませんが、表現が大きく変わっている事が分かります。
第2章「新しい絵画、新たな刺激と仲間との出会い」ふたりに悲劇が訪れたのは1888年です。2月からアルルで生活を始めたファン・ゴッホに誘われ、ゴーギャンは10月にアルルに到着しました。
最初は屋外でともに制作するなど順調でしたが、性格の不一致もあって徐々に緊張状態に。12月23日には激しい口論の末、ファン・ゴッホは自分の耳たぶの一部を切り落としてしまいます。
ファン・ゴッホによる《ゴーギャンの椅子》は、共同生活中に描いた作品。まだ破綻に至る前ですが、結末が分かっているだけに物悲しくも感じられます。
第3章「ポン=タヴェンのゴーギャン、アルルのファン・ゴッホ、そして共同生活へ」決定的な別離にも関わらず、意外にもふたりの交遊は続きました。
ファン・ゴッホは入退院を繰り返しながらもカンヴァスに向かい、ゴーギャンもパリに戻った後再びポン・タヴェンに赴いて制作。ふたりは手紙のやりとりの他、展覧会でファン・ゴッホの作品を見たゴーギャンが自作との交換も申し込んでいます。
ファン・ゴッホは1890年、37歳で没。ゴーギャンはタヒチでは見られないひまわりの種をフランスから送らせ、自宅の庭で栽培して、ひまわりの静物画を数点描きました。
ひまわりといえば、もちろんファン・ゴッホの十八番。亡き友人への想いに溢れた、温かな作品です。
第4章「共同生活後のファン・ゴッホとゴーギャン」、第5章「タヒチのゴーギャン」東京展は12月18日(日)まで。年明けからは
愛知県美術館に巡回します(2017年1月3日~3月20日)。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2016年10月7日 ]■ゴッホとゴーギャン展 に関するツイート