福岡県久留米市に出まれた博。幼少時から画才に恵まれ、地元の洋画家・吉田家に養子入り。初めは京都、後に東京で小山正太郎の画塾・不同舎に入門しました。
横浜で東洋美術の収集家チャールズ・フリーア(フリーア美術館の創立者)知遇を得て、勇躍渡米。ろくに英語も解せず、頼みのフーリアも旅行中だったため会えませんでしたが、訪れたデトロイト美術館で館長に見せた自作が絶賛され、急遽同館で展覧会を行うことに。作品は売れに売れて、いきなり当時の小学校教員の給与13年分を売り上げるという大成功を果たしました。
以後も何度も外遊。「異国から来た画家」という色眼鏡があったにせよ、確かな技術が認められた事は間違いありません。
多くの著名人を魅了した博の作品ですが、美術にうるさかった夏目漱石もその一人。作品は「三四郎」にも登場します。
第1章「不同舎の時代 1894-1899」 第2章「外遊の時代 1900-1906」
生涯を通じて風景画を手掛けた博ですが、中でも山岳風景画は秀逸。博自身が登山を好み、次男には「穂高」と名付けるほどです。
吉田の登山は本格的で、ピーク時にはほぼ毎夏、長期に渡って山籠もり。体力の消耗を避けるため無理な行程は組まず、心にとまる風景を見つけると一気に描画しました。
下界では得られない視点で描いた作品は、多くの登山愛好者に親しまれています(本展は登山・アウトドア用品の「mont-bell」が協力しています)
第3章「画壇の頂へ 1907-1920」
博の作品でよく知られるのが、木版画。遊学先の米国で、粗悪な明治時代の版画が流通している事に憤慨し、新版画に取り組みました。
博の版画は絵師・彫師・摺師が分業する伝統的なスタイルですが、博は彫りや摺りの技術も習得。職人を厳しく指導し、決して妥協を許しませんでした。
摺りに使う色を変えて朝・夕・夜など表情の違う作品を作るなど、木版画も独創性豊か。故ダイアナ妃も博のファンで、来日した際に自らクレジットカードで作品を購入したと伝わります。
第4章「木版画という新世界 1921-1929」
日中戦争が始まった1937年には61歳になっていた博ですが、翌年から3年連続で画家として従軍。上空から撮影した写真も残っており、急降下爆撃を描いた作品も出展されています。
戦後になると下落合の自邸が進駐軍に接収されそうになりますが、自らGHQに乗り込み、画家にとってのアトリエの重要性を英語で力説。戦前から人気があった事もあり、吉田家は進駐軍関係者が集うサロンのような場になりました。
冒頭のマッカーサーの話はジョークにしても、実際に吉田家にはマッカーサー夫人も訪れています。
第5章「新たな画題を求めて 1930-1937」 第6章「戦中と戦後 1938-1950」
吉田博が不同舎で修行していた時代は、ちょうど黒田清輝が主導する白馬会系の「新派」が台頭してきた頃。「旧派」の中心といえる不同舎は劣勢でしたが、硬派・頑固・反骨と典型的な九州男児の吉田博は猛烈に反発。東京美術学校とその出身者を「官僚」とよんで敵視し、ついには黒田清輝を殴ったとまで言われています。
普通すぎる名前とは裏腹の豪快な人生は、会場の映像でも紹介されています。13分という長編ですが、講談調の解説も入ってかなりユニークです。ぜひご覧ください。
展覧会は千葉市美術館を皮切りに、全国を巡回します。スケジュールはこちらをご覧ください。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2016年4月12日 ]
※5月3日(火)から作品の一部が展示替えされます
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