清親没後100年の記念展。明治の風景画が清親なら江戸の風景画はもちろんこの人、という事で、広重と清親をあわせて紹介する企画となりました。
いつもと同様に、まず会場は畳のエリアの肉筆浮世絵から。広重の三幅対と、清親の三点が並びます。
注目は右から2点目の小林清親による《開花之東京 両国橋之図》。横浜美術館で開催されていた「ホイッスラー展」に出品されていた《ノクターン:青と金色-オールド・バターシー・ブリッジ》と、極めて似た作品です。ホイッスラーの作品は、広重の《名所江戸百景 京橋竹がし》の影響を受けて描かれたといわれますが、清親は広重作品を参照したのか、ホイッスラーを見たのか、はっきりした事はわかっていません。
小林清親《開花之東京 両国橋之図》1階では、広重と清親の代表作を対比させながら展示していきます。
時代は幕末と明治。人々の生活や町並みが目覚ましく変化していった様子を、ふたりの絵で楽しむ事ができます。
広重の《東海道五拾三次》シリーズの冒頭に描かれた日本橋も、清親の時代には様変わり。大名行列と棒手振り(ぼてふり)の行商人は、ガス灯に浮かぶ人力車のシルエットに。橋そのものも太鼓橋から洋風の木橋に変わりました。
1章「広重と清親 ─ 巨匠たちの競演」2階に上がると、広重と清親それぞれの風景画となります。
広重は歌川豊広の門下。デビューしてからしばらくはヒットに恵まれませんでしたが、ベロ藍(ベルリアンブルー)を駆使した《東都名所》から新境地を開拓。《東海道五拾三次》は大ヒットとなり、以後も情緒豊かな風景画を数多く手がけました。1858年に死去。江戸時代だけを生きた広重は、浮世絵師としては幸運といえるかもしれません。
逆に、時代の波に翻弄させられたのが清親。佐幕側の武家に生まれ、伏見の戦いにも参戦。将軍家の移住を受けて静岡に移った事もあります。明治7年に東京に戻った後、画業に専念。光と影を巧みに扱った作品を「光線画」と称し、独特の世界を作っていきました。その作品はワーグマンや下岡蓮杖との関係も指摘されますが、学習の経緯は不明です。
2章「広重 ─ 江戸の風景画」、3章「清親 ─ 明治の風景画」地下の展示室では、風景画以外の作品も。花や動物、戯れる人々を描いた作品が並びます。
中でも清親の動物表現は印象的。木版画の技術を駆使して、まるで油絵のような濃密な作品を生み出しました。実は、高橋由一が「鮭」を発表したのもこの時代。もとは日本画家でしたが油彩に転向した由一に対し、清親は従来の技術で西洋画の境地に挑んでいったのです。
展覧会の担当は、太田記念美術館主任学芸員の赤木美智さん。広重・清親の違いと、展覧会の見どころについて伺いました。
4章「花と動物たち」、5章「戯れる人々」 解説は太田記念美術館主任学芸員の赤木美智さん会期は長めですが、前期(4月1日~4月26日)と後期(5月1日~5月28日)で、全作品が入れ替え。リピーター割引(半券の提示で200円割引)もあります。
なお後期は、葛飾北斎の娘で浮世絵師としても活躍したお栄(画号は葛飾応為)を主人公とした長編アニメーション映画「百日紅~Miss HOKUSAI~」の公開を記念し、応為の代表作《吉原格子先之図》が特別公開される事となりました。この作品も光と影の使い方が、まるで光線画のよう。あわせてお楽しみください。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2015年3月31日 ] | | 小林清親 東京名所図
町田市立国際版画美術館 (監修), 桑山 童奈 湯川 説子 河野 結美 二玄社 ¥ 2,592 |