印刷技術のなかった中世ヨーロッパにおいて、人の手でテキストを筆写して制作した「写本」。制作には膨大な時間と労力が必要で、非常な贅沢品でもあったため、華やかな彩飾が施され、美術的な価値が高いものも見られます。
筑波大学・茨城県立医療大学名誉教授の内藤裕史氏が国立西洋美術館に寄贈した写本を中心に紹介し、知られざる写本の魅力を明らかにする展覧会「内藤コレクション 写本 — いとも優雅なる中世の小宇宙」が、同館で開催中です。
国立西洋美術館「内藤コレクション 写本 — いとも優雅なる中世の小宇宙」会場入口
展覧会は、ジャンルごとの9章構成で、第1章は中世ヨーロッパにおける最も重要なテキストといえる「聖書」。もちろん、聖書は多数の写本が制作されています。
聖書の写本における一般的なレイアウトは、各書の冒頭に装飾イニシャルが置かれ、左右2カラム(欄)にテキストを筆写。余白に施された装飾は、写本芸術の醍醐味のひとつです。
(左右とも)《ポワティエのペトルス『キリスト系図史要覧』断簡》1270-80年頃 内藤コレクション(長沼基金)
神の栄光を讃える150編の詩からなり、旧約聖書の一書を構成するのが「詩編」。この詩編のテキストに、聖歌や祈祷文、暦などをあわせて収録した祈祷書が「詩編集」です。
詩編に含まれる詩の各節冒頭に置かれるのが、節イニシャル。詩句から得た着想を字義的に表現したイメージが、しばしば用いられます。
(左右とも)《詩編集零葉》1400-25年 内藤コレクション
修道院や教会では、一日8回、決まった時刻に礼拝が行われます。夜半過ぎの朝課から始まり、続いて賛課。午前6時か7時頃に一時課。そのあとは約3時間おきに三時課、六時課、九時課、晩課となり、最後が就寝前の終課です。
礼拝の内容をまとめて収録した書物が「聖務課書」です。主に司祭が使いましたが、次第に一般信徒たちにも普及していきました。
フランチェスコ・ダ・コディゴーロ(写字)ジョルジョ・ダレマーニャ(彩飾)《『レオネッロ・デステの聖務日課書』零葉》イタリア、フェラーラ1441-48年 内藤コレクション
次は「ミサのための写本」。ミサは、いうまでもなく修道院や教会における中心的な典礼。聖務日課と同様ですが、ミサでも曜日や祝日、教会暦に従って内容が変化したので、その複雑な編成に対応すべく、数種の書物が編まれました。
ミサ典礼書には、司祭とその補佐役が唱え、あるいは歌うテキストのほか、聖歌隊が歌う聖歌も入っています。
(左右とも)ファストルフの画家(彩飾)《ミサ典礼書零葉》1430年頃 内藤コレクション
第5章では、聖務日課やミサ以外の用途で聖職者たちが用いた写本を紹介します。
写真の《司教定式書零葉》は、いわゆるアヴィニョン捕囚期(1309-78年)に、教皇庁周辺の高位聖職者のために制作されたと思われる紙葉。ともにテキストに記された儀式の内容が、イニシャルの挿絵になっています。
(左右とも)《司教定式書零葉》1320年代頃 内藤コレクション
聖職者らに倣って、一般の信徒たちも毎日定められた時間に私的な礼拝を行っていました。この礼拝で用いられた書物が「時祷書」です。
15世紀までに時祷書は、フランスやネーデルラントを中心に爆発的に流行したこともあり、中世において最も多くの写本が制作されたのも時祷書です。
《『ギステルの時祷書』零葉》1300年頃 内藤裕史氏蔵
続いて「暦」。キリスト教における日々の礼拝は、キリストの生誕を一年の周期にあてはめた「教会暦」に従って決まるため、詩編集や聖務日課書などの巻頭には、暦が入っているのが通例でした。
こちらの《時祷書零葉》の左下に描かれているふたつの顔を持つ人物は、物事の始まり、さらに1月をつかさどるヤヌス神です。
《時祷書零葉》1420-30年頃 内藤コレクション
「教会法令集」とはカトリック教会が組織運営や信徒たちの信仰、生活に関して定めた法文を書いた書物。1140年頃にボローニャの法学者が『グラティアヌス教会法令集』を編纂、続いて1234年に『グレゴリウス9世教皇令集』が発布されました。
「宣誓の書」は、中世フランスで市参事会員や領主が「福音書にかけて」宣誓する儀式の際に、福音書やミサ典礼書の代わりに用いた書物です。
(左右とも)《グレゴリウス9世『グレゴリウス9世教皇令集(集外法規集)』(パルマのベルナルドゥスの「標準注釈」を伴う)零葉》1300-25年頃 内藤コレクション
最後の第9章は「世俗写本」。内藤コレクションには、世俗的、すなわち非宗教的な内容をもつ写本も数点含まれています。
《ブルネット・ラティーニ『宝典』零葉》は、歴史や地理、科学などを百科全書的に記した書物。10行のテキストの上にある4人の女性は、四枢悪徳(あらゆる徳の基礎となる4つの徳)を象徴しています。
《ブルネット・ラティーニ『宝典』零葉》1460年頃 内藤コレクション
これだけまとまったかたちで写本を紹介する展覧会は初めての試み。書物としての機能と結びつき、文字と絵が一体となった彩飾芸術の粋をお楽しみください。多くの作品が写真撮影も可能です。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2024年6月10日 ]