1950年代のロンドンでミニスカートを発表し、60年代のストリートカルチャーを牽引したファッションデザイナー、マリー・クワント(1930-)。エレガンスな装いが好ましいという考え方や、階級意識に縛られた価値観を打ち破り、モデルのツイッギーやビートルズと共に、60年代イギリス発の若者文化「スウィンギング・ロンドン」を牽引しました。
ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館から来日した約100点の衣服を中心に、1955年から75年にかけてマリー・クワントの歩みを辿る展覧会が、Bunkamura ザ・ミュージアムで開催中です。
Bunkamura ザ・ミュージアム「マリー・クワント展」会場入口
展覧会は年代順。第1章は「ブランドの構築」です。
マリー・クワントはロンドン生まれ。両親はともに教師です。ゴールドスミス・カレッジで美術などを学んだ後、ロンドンのボヘミアンたちが集うチェルシー地区で、1955年にブティック「バザー」を開店しました。
当時、イギリスでは豊かになった若者たちが、音楽やクリエイティブシーンで存在感を強めていました。
クワントは新世代のモデル、ファッションエディター、写真家らと共に、新たなイメージを作ります。階級を感じさせない「クワント」という文字を大きく配するなど、パワーを感じさせるデザインを採用。ブティックにはスタイルにこだわる買い物客が詰めかけ、クワントはイギリスの新たなファッションアイコンとなっていきました。
第1章「ブランドの構築」
第2章は「成功への扉」。1960年、クワントはパートナーであるアレキサンダー・プランケット・グリーンとともにニューヨークへ向かいます。アメリカの高級百貨店のバイヤーに洋服やアイデアを売り込むと、ほどなくしてそのデザインは、ニューヨークのショーウィンドーを飾るようになります。
クワントはアメリカにおける既製服の生産体制の規模、速度、システムに衝撃を受け、効率性や価格設定、サイズ感などを修得。1965年には定期的に大西洋を横断するようになり、彼女の市場はヨーロッパ、北アメリカ、オーストラリアへと広がっていきました。
第2章「成功への扉」
第2章「成功への扉」
第3章は「グローバル化」。マリー・クワントを象徴するデイジーマークは、1966年に商標登録されました。
自分の名前、ロゴ、肖像を世界中のライセンス商品の販促キャンペーンに使用することを許諾することと引き換えに、手数料と売り上げの一部を取得。まさにデイジーマークは、ブランドロゴの先駆けといえます。
第3章「グローバル化」
第3章「グローバル化」
最後の第4章は「ファッションの解放」。平等な権利を求める活動や闘争が盛んになっていた時代、開放感に満ちたミニドレスは、戦後のイギリスの変化の象徴になりました。
1960年代後半から 1970年代前半にかけて、クワントは伝統的なステレオタイプに挑戦するようなデザインを発表し続けます。
クワント自身も、男性的なテーラリング(仕立て)に女性的な柔らかさやカジュアルなタッチを加えた中性的な服を着用するなど、既成の概念に対峙しました。
第4章「ファッションの解放」
1970年代後半になると、クワントは日本での仕事が増えていきました。
化粧品の本の出版や、乗用車「ミニ」の特別仕様車のデザインなど、多方面で活躍。2015年には2度目の大英帝国勲章(DBE)も受章しています。
おわりに「すべての人のためのファッション」
イギリスのファッションは創造的で革新的とされていますが、マリー・クワントこそが、そのさきがけ的な存在です。ファッションが単なる衣服ではなく、社会に向きあう思想を伝えるメディアになりうる事を示した、革命児でした。
特設ショップには展覧会オリジナルのグッズもずらり。グッズは数量限定のため品切れの場合もあります。お目当てがある方は、お早目にどうぞ。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2022年11月25日 ]