このコーナーでは2012年からご紹介している「発掘された日本列島」展(
2012年、
2013年、
2014年、
2015年、
2016年)。今年は、会場入ってすぐの目立つ場所で「開陽丸」からの出土品が展示されています。
幕末の徳川幕府の旗艦だった開陽丸。阿波沖海戦では薩摩を撤退させるなど活躍しますが、旧幕府軍の援護に向かう途中で座礁、沈没した悲劇の軍艦です。
海底から約3万点の遺物が引き揚げられており、展示されているのは砲弾やピストル、銃弾、日本刀などの武器から、オランダ人の乗組員が使っていたと見られるスプーンやフォークなど食器まで多彩。船体の一部は銅板や銅網で保護され、海底で現状保存されています。
開陽丸会場を少し進むと、弥生時代の銅鐸が並んでいます。小さな銅鐸は神明遺跡(岡山県総社市)、大きな銅鐸の一部は天満・宮西遺跡(香川県高松市)からの出土品です。
両遺跡の間は、ざっと200年。大きさの違いから、銅鐸の意図が「聞く銅鐸(中に吊るした‘舌’で音を出す)」から「見る銅鐸(見せる事が主意となる)」に変化した事が良く分かります。
大きな銅鐸は意図的に割られた可能性もあります。これは銅鐸を用いた祭祀が終わった(=新しいシンボルは鏡)ことを示唆しています。
神明遺跡(岡山県)と天満・宮西遺跡(香川県)歴史は一気に飛んで、近世の鹿児島城跡へ。鹿児島城の石垣を清掃したところ無数の穴が見つかり、西南戦争の弾痕である事が分かりました。会場では穴から見つかった銃弾などが展示されています。
西南戦争最後の戦いである城山攻防戦。残された薩摩軍は僅かな手勢でしたが、5万の明治政府軍は無数の砲弾を浴びせました。負傷した西郷隆盛は「もうここいらでよか」と言い残して自決。国内最後の内戦は、ここに終結したのです。
鹿児島城跡(鹿児島県)ゲートをくぐった先は、今回のキモといえる「発掘された水中遺跡」。日本には約46万8000カ所の遺跡(世界的にも卓越した多さ)がある一方で、水中遺跡として知られているのはわずか387カ所。まだまだ知られていない水中遺跡が数多く眠っていると思われます。
鷹島神崎遺跡(長崎県)は、弘安合戦(弘安の役)において壊滅した元軍の遺跡。海域から多くの遺物が見つかり、平成24年に水中遺跡としてはじめて史跡に指定されました。これを期に、本格的な水中遺跡の保護がはじまったのです。
会場では鷹島神崎遺跡から見つかった「てつはう(鉄砲)」を展示。調査の結果、火薬とともに鉄片や陶器片も詰められていた、殺傷能力が高い武器だったことが分かっています。
「発掘された水中遺跡」もうひとつの特集として、東日本大震災の被災地に焦点を当てた「復興のための文化力」も、例年どおり実施。また、東京開催の地域展として「“速報”四谷一丁目遺跡 - 麹生産にみる江戸・東京 -」も展示されています。
江戸博からはじまり、今年は青森、三重、愛知、長崎と巡回します。会場と会期は
こちらをご覧ください。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2017年6月2日 ]■発掘された日本列島2017 に関するツイート