ジュリア・マーガレット・キャメロンは1815年生まれ。父は東インド会社の上級職員、母はフランス貴族の娘で(そのため、出生地はインド・カルカッタです)、23歳で結婚。6人の子どもを育てながら主婦として生きる前半生でした。
キャメロンの人生を変えたは、1863年、彼女が48歳の時に娘夫婦から贈られた1台のカメラ。まだ新しいメディアだった写真の魅力に取り付かれたキャメロンは精力的に撮影を続け、わずか一年半後にはサウス・ケンジントン博物館(現ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館)に作品が買い上げられるほどになりました。
第一章 最初の成功からサウス・ケンジントン博物館へキャメロンは1865年に2台目のカメラを入手。大きなガラスネガも扱えるこのカメラによって、キャメロンの写真も飛躍的に進歩しました。
当時の肖像写真はモデルの容貌を克明に写し取るスタイルが主流でしたが、キャメロンはモデルが動いて多少ボケても気にせず、頭部をクローズアップした独特の写真を制作。キャメロンの写真はモデルの存在感が強調され、高い評価を受ける事になります。
肖像写真とともにキャメロンがテーマにしていたのが、絵画的な写真。展覧会のメインビジュアルである《ベアトリーチェ》も、グイド・レーニ作と伝えられる同名の絵画を彷彿させます。
第二章 痺れさせ驚嘆させる前述したように、裕福で身分も高かったキャメロン。詩人のアルフレッド・テニスンや天文学者のジョン・ハーシェルなど著名人と交流があり、撮影する機会にも恵まれています。
キャメロンを語る上で、ビジネス感覚に優れていた事は外せません。展覧会の活動も積極的に行い、代理店を使って写真を販売。単なる営業写真師ではなく、現在でいうところのプロのカメラマンとして活動しようとしており、この時代としては稀な女性といえます。
その意識が強く現れているのが、テニスンの物語詩『国王牧歌』のための挿絵写真。詩集で使われた写真の小ささと質の悪さに納得がいかなかったキャメロンは、詩集で使われた写真を大判の写真集として出版しています。
第三章 名声だけでなく富も写真という新しい技法において、キャメロンは果敢に独自の表現に挑戦していきました。ソフトフォーカスを多用し、傷をつけたネガを用い、果ては複数のネガから一枚の写真を作って…。大胆な手法は当時の批評家たちには理解されない事もありましたが、対象を写すだけに留まらず、制作側の意図を写真に残すスタイルは、後の写真芸術においてはごく一般的な手法になります。まさに、時代の一歩先を進んでいたのがキャメロンでした。
スタートが遅いこともあり写真家としての活動期間は20年足らずでしたが、写真を記録から芸術に高める大きな役割を果たしたキャメロン。1879年、インド・セイロン島で63歳の生涯を閉じています。
第四章 失敗は成功だった三菱一号館美術館で写真展が行われるのは、今回が初めて。趣きがある館内とキャメロン絶頂期のヴィンテージプリントは相性ぴったりです。贅沢なひと時をお楽しみいたたける事を保証します。館内は撮影できる展示室もあり、メインビジュアルも撮影可能です(三脚や自撮棒は不可)。
国際巡回展ですが、日本では
三菱一号館美術館だけでの開催です。同館の展覧会にしては会期が短めですので、ご注意ください。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2016年7月7日 ]■ジュリア・マーガレット・キャメロン展 に関するツイート