大学卒業後に軍医となったシーボルト。バタヴィア(現インドネシア・ジャカルタ)へ旅立ち、後に出島のオランダ商館付の医師として、日本へ派遣されました。
オランダ本国の要請で、西洋医学などの知識と引き換えに日本を調査したシーボルト。日本の女性・其扇(そのぎ・楠本たき)、二人の間に生まれた女児いねとともに出島で暮らし、滞在中にさまざまの資料を収集しました。
第1章「日本に魅せられた男、シーボルト」シーボルトが初来日した1823(文政6)年は11代将軍家斉の治世。徐々に変化の兆しは現れていたものの、まだ幕府の権威も強く、外国人の行動も制限されていました。
シーボルトは私塾を開設して西洋医学や自然科学を教授。門弟には課題も与え、提出された論文はシーボルトの日本研究にも役に立っています。
最初の来日から帰国する準備中に起こったのが、有名なシーボルト事件です。所持品から、国外に持ち出すことが禁じられていた日本地図が見つかったこの事件で、関係者は処罰され、シーボルトは国外追放になりました(後に日蘭修好通商条約の締結で処分は解除、二度目の来日を果たします)。
地図は幕府に没収されましたが、最近になって写しと見られる地図が子孫宅から見つかりました。伊能忠敬の測量によってつくられた地図を写したと見られるこの地図、日本では初公開となります。
第2章「シーボルトの日本研究」帰国したシーボルトは、前述した書籍の出版のほか、日本から持ち帰った品々の展示を始めました。
最初の訪日後には、自邸でコレクションを公開。二度目の訪日ではさらに多くの民族学的資料を収集しました。
シーボルトはバイエルン国王ルートヴィッヒ1世に対し、民族学博物館設立の計画草案を提示しています。12項目からなるこの案は、各民族の本質を比較した上で、学術的な研究を目的とした機関を設けるように説いており、これは現代にも繋がる開明的な思考。一方で、これらの施策は民地政策や貿易政策にも役立つとも言及しています。
第3章「シーボルトの日本展示と民族学博物館構想」今回のメインは第4章。ミュンヘンの宮殿で1866年に展示されたシーボルト最後の日本展示を、残された資料をもとに再現しました。ミュンヘンでは会場7室の中で、3つの空間が日本の展示。残りは中国・インド・東南アジア・アフリカ・オセアニア・先史時代・アメリカなどの展示ケースが配置されました。
日本展示の目録を参照すると、展示された資料は実に1,565件。展覧会ではできるだけシーボルトによる構成を守りつつ、約200件の資料を並べています。
なお、150年前には展示されたものの、今回は展示できなかった資料については、デジタルコンテンツで見る事ができます。大型スクリーンのタッチパネルでお楽しみください。
第4章「ようこそシーボルトの日本博物館へ」シーボルトについて、その行動がスパイのように言及される事も少なくありません。前述したように、確かにシーボルト自身も植民政策にも有用としていますが、これは王=スポンサーに向けての発言である事にも注意が必要です(費用を得るための理由づけの可能性があります)。
帰国後には情熱的に日本の研究と紹介を続けたシーボルト。三度目の訪日も熱望しましたが、残念ながら想いはかなわず、70歳で死去しています。その行動を追うと、植民政策に根ざした野心よりも、学者としての探求心の方を私は重く感じましたが、いかがでしょうか?
展覧会は、
国立歴史民俗博物館からスタートする巡回展。千葉の後は東京、長崎、名古屋、大阪と巡回します。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2016年7月11日 ]■シーボルトの日本博物館 に関するツイート