近代日本画の大家、安田靫彦。一般的には、切手になった《飛鳥の春の額田王》などで知られています。
同時期に活躍した今村紫紅と速水御舟は戦前に早世したのに対し、靫彦は94歳の長命に恵まれて長きに渡って活躍しました。美しい線や無駄のない構図など洋画とは違う日本画の特質は靫彦の画風と重なるため、現代の人が「日本画」と聞いてイメージするスタイルを確立させたのが靫彦ともいえます。
会場構成は年代順で、冒頭の作品を描いたのはなんと15歳。若くして極めて高い画力を身につけていた事が分かります。
最初の師匠が時代考証に厳しい小堀鞆音という事もあり、当初は徹底した写実だった靫彦。入門二年で鞆音から離れると、独創的な解釈の歴史画を目指していきます。
第1章「歴史画に時代性をあたえ、更に近代感覚を盛ることは難事である│1899-1923」一時は病臥に伏せていた靫彦ですが、大正末に健康を回復。古典作品からも刺激を受けて、精力的に創作を進めます。
この章の注目は、瀕死のヤマトタケルを描いた《居醒泉》。第15回再興院展への出品作ですが、34年ぶりの展覧会出品となりました。簡潔な線描で描かれた人物に対し、周囲の植物は写実。絵画としての理想と写実的な表現について、バランスを模索していた時期の重要な作品です。
少年のような二神を描いた《風神雷神図》も、この時期の作品です。琳派で知られる風神雷神図に対し、靫彦は「鬼になる以前」を描いた、と語っています。
第2章「えらい前人の仕事には、芸術の生命を支配する法則が示されている│1924-1939」1940年の「紀元2600年奉祝美術展」で審査員を務めた靫彦は、この時点で56歳。戦時色が強くなる中、当局の意図に沿った(つまり、戦意を高揚させるような)創作が期待される立場にいました。
展覧会フライヤーに使われている《黄瀬川陣》は、挙兵した源頼朝のもとに義経が参上した場面。「国家の難局に国民が馳せ参じる」との短絡的な解釈を
靫彦は明確に否定したそうですが、鑑賞者側がそれを意識した事は想像に難くないでしょう。
戦時を感じさせる直接的な作品としては《山本五十六元帥像》もあります。海軍に依頼された作品ですが、完成前に山本は戦死。写真を基にして描き、1944年の「戦時特別文展」に出品されました。
第3章「昭和聖代を表象するに足るべき芸術を培ふ事を忘れてはならない│1940-1945」最終章は戦後の作品です。敗戦による価値観の変化で日本画や歴史画は非現実的と批判される事もあり、主題を変える画家も少なくありませんでしたが、靫彦は歴史画にこだわりました。代表作といえる作品も、この時期に描かれたものが多数あります。
《卑弥呼》は1968年、84歳の時の作品。《王昭君》《飛鳥の春の額田王》とあわせて「靫彦戦後の3大美女」とされています。
卑弥呼は邪馬台国の女王。邪馬台国の所在地については畿内と九州の二説がありますが、この作品は背景に阿蘇山を描いた畿内説に基づいたもの。4年後には畿内説に基づいた作品も描いています。
第4章「品位は芸術の生命である│1946-1978」靫彦の作品は、美術はもちろん歴史の教科書に載っている事も多いため、画家の名前は知らずとも作品が記憶に残っている人は多いと思います。下図などを含まずに、本画だけで108点という大規模展。同時開催中の所蔵作品展「春らんまんの日本画まつり」とあわせ、日本画の真髄をお楽しみください。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2016年3月22日 ]「安田靫彦展」公式図録の通信販売はこちら
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