第一次世界大戦終結後の1920年代。世界的に観光がブームとなる中、遠い日本までその影響が伝わってきました。
大きな要因は、シベリア鉄道と南満州鉄道の連絡による国際線化、パナマ運河の開通などの、交通インフラの整備。外国人観光客を視野に入れた宣伝広告にいち早く乗り出したのも、鉄道や船会社でした。
ポスターには自社の鉄道網や航路を示すとともに、民族衣装をまとった女性などを掲載。異国情緒を印象づけるスタイルは、後に政府が主導する事になる「日本のイメージ」の形成にもつながって行く事となります。
ユニークな大阪商船のポスターが、第22代横綱・太刀山を描いたもの。「アメリカを踏みつけた」という抗議が神戸のアメリカ領事館から出ましたが、それが却って評判となりました。
第1章「交通網の広がりと観光 鉄道と航路」
1912年には半官半民の外客誘致機関「ジャパン・ツーリスト・ビューロー」が発足。杉浦非水らが手がけたポスターやパンフレットは、主要駅に開設された案内所に掲示されました。富士山や寺社仏閣など現代でもよく使われる観光イメージが、この時期にもみられます。
興味深いのは、大正末期に行われた外国人観光客へのアンケート。「美しい国」など13項目中4項目で日本は最高点となり、当時も外国人が日本に対して好印象を持っていた事が分かります。
台湾と朝鮮を日本が統治していたこの時代。満州も含め、東アジア周遊旅行の観光キャンペーンも盛んに行われました。エキゾチックな大陸美人を数多く描いたのは、満鉄弘報(広報)部に在籍していた伊藤順三です。
第2章「外国人観光客を誘致せよ」
1929年の世界恐慌の後、政府はさらに観光業を重視する方針を掲げ、国際観光局を設立します。鎌倉大仏など観光地を撮影した写真を利用したポスターは、当時としてはかなり斬新。伊東深水、川瀬巴水、上村松園らを起用して押し出した「美しい日本」のイメージは、貿易収支改善だけでなく、国際的に孤立を深める中「対日世論の是正」という裏ミッションも秘められていました。
1930年代中頃には景気は回復。国際連盟から脱退は日本円の大幅な下落をよび、皮肉にも観光事業を押し上げる事となりました。ピークは1936年、訪日観光客4万人、消費額は1億円を突破し、外貨獲得高は綿織物、生糸、人絹織物に次ぐ4位と重要な産業となりました。
第3章「観光立国を目指して」
ただ、観光への期待はここまで。翌1937年に日中戦争が勃発すると、対日世論は大幅に悪化して訪日外国人は激減。1942年に国際観光局は廃止されてしまいます。
この後、国によるイメージ作りは、戦争一色に。IZU PHOTO MUSEUMで開催中の「戦争と平和 ─ 伝えたかった日本」展(1月31日まで)につながっていきます。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2016年1月21日 ]
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