京都で生まれた中島清之。画家を目指し、横浜の叔父を頼って16歳で上京しました。着物姿の清之を見た叔父は、すぐに洋服を買ってくれたそうですが、当時(大正4年)は着物は珍しくなかった時代。そんなハイカラな横浜の空気は、清之の画業にも影響を与えたと思われます。
会社務めをしながら、松本楓湖の安雅堂画塾で研鑽を積んだ清之。粉本の模写に励むと同時にスケッチ魔でもあり、関東大震災の様子もスケッチで描いた後に画巻にしています。
25歳で描いた《桃の木》(本展には未出品)が、院展でいきなり入選。大勢の記者が家に押しかけたため、清之の母は息子が悪事を働いたと勘違いし「早く裏から逃げなさい」と慌てたそうです。
第1章「青年期の研鑽」日本全体が戦争に向かう中、清之も1938(昭和13)年に慰問使として中国に赴きます。兵士の似顔絵などを描く一方で、当時の風俗を題材にした作品も制作しました。
空襲が激しくなると、家族とともに小布施(長野県)に疎開。1947(昭和22)年まで3年間過ごし、美しい自然と素朴で親切な人々との交流は、画業にも好影響を与えたと本人が語っています。
二女三男に恵まれた清之(次女のみ夭折)。父と同じ日本画の道に進んで活躍している中島千波は末っ子で、会場には幼少の千波を描いたスケッチも展示されています。
第2章「戦中から戦後へ」戦後に再開した院展でも活躍。1952(昭和27)年には日本美術院の同人(審査員)に推挙されるなど重鎮といえる立場になりますが、スタイルの定着を拒否するかのように、表現上の挑戦を続けていきます。
時代を席巻していたアンフォルメルを意識した《顔》を制作したのは、実に61歳の時。さらに歩を進め、幾何学抽象の作品も手掛けています。
夫婦を描いた《椿笑園の主達》は、抽象的に描かれたた人物と、具象で描かれた畳や猫などが違和感なく同居した作品。清之ならではの構成力といえます。
第3章「円熟期の画業」展覧会メインビジュアルの《喝采》は、74歳の時の作品。「喝采」を熱唱する、ちあきなおみを描いた作品です。
清之はテレビで見たちあきの佇まいに惹かれ、作品にする事を決断。歌謡番組の収録を見に行くほど入れ込んで、作品を仕上げました。隣に展示されている下絵とはだいぶ違いますが、制作途中を知人に見られた事が嫌で、がらっと変えてしまいました。
ここまで直接的なエンターテインメントを描いた作品が院展に出るのは珍しく、発表当時も多いに話題を呼びました。清之は後にテレビのワイドショーでちあきと共演、院展の会場で一緒に作品も鑑賞しています。
第3章「円熟期の画業」会場後半にある三溪園臨春閣の襖絵は、琳派研究の成果を発揮した大作。清之の画業の集大成といえる作品です。全11室分を依頼されましたが、残念ながら途中で病のため断念。以後の制作は千波に引き継がれています。
直接本展とは関係ありませんが、晩年の五姓田義松は若き日の清之のご近所さんでした。すでに画壇の主流から外れていた義松は酒浸りになっており、酒を飲んで暴れる義松を清之は兄たちと一緒におさえに行く事も。ほどなくして義松は寂しく死去した事もあり、清之の両親は清之が絵描きになるのを嫌がったそうです。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2015年11月2日 ]※会期中に展示替えがあります
■横浜美術館 中島清之 に関するツイート