桜の花も咲き始めた春の日、横浜美術館で「NODE-ヌード 英国テート・コレクションより」の内覧会へ行ってきました。
今でこそ美術館だけでなく、いろいろな場面でヌードの表現を見ますが、皆さんはどのように感じますか?
表現方法のひとつだから、何とも思わない?
いやいや、恥ずかしくて正視できない?
この展覧会は、英国テート美術館のコレクションを中心に、ヌードに注目した展覧会です。
西洋でも古くは「ヌードの彫刻や絵画はけしからん!」という考え方は当然でした。それでも多くの芸術作品の中にヌードがあるのは、神話や聖書の中のヌードなら「神聖なものだから大丈夫」という免罪符があったのですね。
この展覧会の冒頭は、古くからの考え方に沿って「物語とヌード」がテーマです。
ハモ・ソーニクロフト《テウクロス》1881年
ソーニクロフトは、19世紀の彫刻家ですが、まるでギリシャ彫刻のように美しく整った肉体の表現です。
アンナ・リー・メリット《締め出された愛》1890年
アメリカの女流画家である彼女は、結婚後3か月で亡くなった夫を追悼してこの作品を描いたといわれています。愛の神クピドが墓の扉を必死にこじ開けようとしている様子と足元に投げ出された愛の矢が切ない作品です。
20世紀なると、現実に存在する身近な人をヌードとして描くようになりました。芸術的表現と卑猥さが大いに論議される時代でした。
アンリ・マティス《布をまとう裸婦》1936年
密室の中でその風景に溶け込むように描かれた裸体のモデルは、不自然さがなく、画家とモデルの信頼をそこに感じます。
ヌードが画題として認知され始めると、人間ならだれもが持つ肉体そのものに関心が集まってきます。それが原始的な生命力を感じさせるような作品を生む風潮になってきたのでしょうか。
下は、この展覧会のシンボル的作品です。
オーギュスト・ロダン《接吻》1901-4年
見上げるほどの大きさと真っ白な大理石に圧倒される作品です。柔らかくしなやかな女性と筋骨たくましい男性の肉体の表現が崇高な愛を表現しています。
また、この部屋で見逃せないのは、風景画家として名高いターナーのヌードスケッチです。エロティックなスケッチの数々は、「あのターナー??」と思ってしまいますが、正確なデッサンは「さすがターナー!!」とも言いたくなります。
ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー 左から《空のベッド》1827年 《ベッドに横たわるスイス人の裸の少女とその相手「スイス人物」スケッチブックより》1802年
20世紀半ばでは、芸術の表現としてレアリスムとシュルレアリスムが生まれました。人体もその新しい表現方法によりさまざまな形で表されてきました。
デ・クーニングやフランシスコ・ベーコンは独特の表現で、肉体表現に挑みます。体という器を通してモデルや画家の心のありようを捉えているように感じます。
肉体を表現するとは、性や人種などの固定観念に挑むことにもつながります。従来男性画家が女性のヌードモデルを描くことが多かったことに一石を投じたシルヴィア・スレイの作品などは私自身の固定観念を覆された思いでした。
展覧会の最終章のテーマは「儚き身体」です。生まれて死んでいく私たちの肉体は、儚くもあり、また力強くもあります。
こちらの3点は、リネケ・ダイクストラの作品で、左から出産後1時間《ジュリー》、1日《テクラ》、1週間《サスキア》の経産婦をカメラに収めたものです。
この企画展と同時に別室では、横浜美術館コレクション展「人を描く-日本の絵画を中心に」を同時開催しています。
日本ではどのような人体表現があったかを展示しています。
NUDE展で展示されていたミレイの《ナイト・エラント》を下村観山が紙本着彩で模写しているものも見られ、オトクな気分にもなりました。
ぜひ、そちらへもお立ち寄りになられてはいかがでしょうか。
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松田佳子
湘南在住の社会人です。子供の頃から亡き父のお供をして出かけた美術館は、私にとって日常のストレスをリセットしてくれる大切な場所です。展覧会を楽しくお伝えできたらと思います。
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