展覧会はふたりが民芸と出会う前、それぞれのスタイルが確立する前から始まります。若い頃の河井寬次郎は、釉薬を使いこなす気鋭の陶芸家。鮮やかな作品は「国宝級」と評価されますが、異を唱えたのが柳宗悦です。李朝陶磁との出会いをきっかけに、朝鮮半島の暮らしに根ざした美を称えていた柳は、技巧に走る河井を激しく批判。後年は足並みを揃えた二人ですが、この頃はややギクシャクしていました。
一方の棟方志功は独学で油彩を修得。青森で活躍したものの帝展で苦戦し、川上澄生の版画を見たことがきっかけとなり、次第に版画への関心を深めていきます。
柳と河井の間を埋めたのは、江戸時代の素朴な仏像・木喰仏です。それまで軽視されていた木喰仏を柳は研究、それを見た河井は大きく心を動かされ、ふたりは一気に接近します。
そこに棟方が加わったのは、棟方の作品「大和し美し(やまとしうるはし)」から。古事記をテーマにしたこの巨大な作品を柳が見出し、開館準備が進む日本民藝館へ。柳から紹介された河井も驚嘆し、河井と棟方はすぐに理解しあったといいます。
河井は京都に戻る際、棟方を連れて行く事になり、自宅に「クマノコ ツレテ カヘル」と打電。京都ではともに神社をめぐり、棟方は河井から仏教の手ほどきを受けています。
1.「誕生歓喜」 / 2.日本民藝館と「クマノコ」棟方といえば「ほとけ」をテーマにした作品が印象的です。河井からの影響で木喰仏に触れた事も、棟方にとっては大きな契機になっています。1939年に発表した《二菩薩釈迦十大弟子板畫柵》は、一見すると稚拙にも思える人体表現ながら、木版画ならではの特性を活かした力強い作品。戦後にサンパウロ・ビエンナーレで版画部門の最高賞を受賞する事になります。
展覧会には、河井と棟方の合作も出展されています。河井が詞を書き、棟方が描いた《火の願ひ板畫柵》。良く見ると、窯の絵の上に三人の人物が描かれており、左から河井、柳、濱田を現しています。
3.ほとけ / 4.『火の願ひ』高い評価とは裏腹に、無位無冠の陶工としての生涯を貫いた河井寬次郎。文化勲章、人間国宝、芸術院会員に推挙されていますが、全て辞退。パリ万博やミラノ・トリエンナーレ国際陶芸展でのグランプリは、河井に無断で出品されたものでした。
後年の河井は作陶に留まらず、木彫や面まで手掛けています。有機的な形態には、河井の‘もの’に対する想いが込められています。
展覧会の最後は茶道具など。柳は日本の茶道について、朝鮮半島の雑器を用いた初期の茶人を称賛する一方、千利休らが確立した茶道を批判。特に和物茶碗は作為があるものとして嫌い、自然な高麗茶碗を好みました。河井が手がけた茶碗や、茶掛に用いる棟方の板画などが並びます。
5.いのち / 6.茶韻世界レベルで高く評価された、板画家と陶芸家。ジャンルは異なるものの、棟方は河井を強く慕い「初めて先生とお称(よ)びする方を得ました」と称賛。河井も棟方の才能を認め、互いに影響を与え合う関係でした。
作品数も多い充実展ですが、巡回はせずに千葉市立美術館だけでの開催です。会期中は8月1日(月)のみ休館です。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2016年7月12日 ]■河井寬次郎と棟方志功 に関するツイート