ちょうど100年前に誕生したエム・カテラ。変わった名前は、開発に関わった松本福松(M)、加藤嘉吉(KA)、寺田新太郎(TERA)から命名されたものです。国内産業振興のために開かれた東京大正博覧会に出品され、工業的にも成功。現代につながる国産顕微鏡の歴史は、ここに始まりました。
日本館1階中央ホールには、エム・カテラをモデルにしたジャイアント顕微鏡も登場。その前には、本物のエム・カテラも展示されています。
エム・カテラと、ジャイアント顕微鏡会場は、まず日本館1階常設展の顕微鏡コーナーから。日本には江戸時代半ばに顕微鏡が伝わり、観察した雪の結晶が着物や工芸の意匠として流行するなど、江戸時代の人々にとっても顕微鏡で見る世界は身近な存在でした。
天明年間(1781-89年)には国産顕微鏡も作られていますが、もちろん当時の国産顕微鏡は工業製品と呼べるものではありません。
プロローグ「顕微鏡事始め」明治になると性能が良い顕微鏡が続々と輸入されるようになり、さらに顕微鏡は広まります。密接な関わりがあったのは、当時の日本の主力産業であった養蚕業でした。
顕微鏡は蚕卵紙(蚕の卵を産み付けた紙)の良否を判断したり、蚕の病気を検査するために利用。その検査方法は出版物で紹介されたため、顕微鏡は日本各地に普及していきます。
携帯用の筒型顕微鏡も、養蚕などで用いられましたエム・カテラの誕生以後は、その技術を継承した顕微鏡製造会社が次々に誕生。戦後はさらに多くの会社が顕微鏡を手掛け、現在では長い間世界をリードしてきたドイツ製顕微鏡と競う水準まで至りました。
会場には戦前に昭和天皇に献上された顕微鏡から現代の顕微鏡までずらり。科博の展示らしく、顕微鏡を覗けるコーナーも用意されています。
代表的な機種が並びます日本人の精密光学機器製造に関する適正と持ち前の勤勉さから、100年足らずで世界トップレベルになった国産顕微鏡。今後も、さらに限界を超えるような光学顕微鏡の開発が期待されます。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2015年3月2日 ]■国産顕微鏡100年展 に関するツイート