展覧会開幕の前々日に飛び込んできた訃報。2014年10月26日(日)、近年体調を崩していた赤瀬川原平さんが、敗血症のため77歳で死去しました。
赤瀬川さんの大規模展は、1995年に
名古屋市美術館で開催された展覧会以来19年ぶりで、東京圏に限れば初開催。全くの偶然ながら、突然の"回顧展"になってしまいました。
千葉市美術館での展覧会は、全室を使った大型企画。全11章で本名の赤瀬川克彦時代の作品から晩年の活動まで、半世紀余の歩みを網羅します。
会場入口から第1章「赤瀬川克彦の頃」、第2章「ネオ・ダダと読売アンデパンダン」赤瀬川さんは1937年生まれ。1960年に吉村益信らと「ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ」の結成に参加、1963年には中西夏之、高松次郎と「ハイレッド・センター」を結成し、前衛芸術家として活躍しました。
結果として、赤瀬川さんの名が一躍知られるようになった事件が「千円札裁判」。千円札をモチーフにした作品を作っていた赤瀬川さんが、当時、世間をにぎわせていた偽札事件との関わりがあるように報じられ、後に起訴されたものです。「表現の自由」を巡る芸術裁判は最高裁まで争われましたが、1970年に敗訴しました。
第4章「千円札裁判の展開」60年代後半からはイラストなど平面分野の活動が増えていきます。朝日ジャーナルに「櫻画報」を連載。沖縄問題や三島事件など、社会的な事件をパロディにして発表しました。「アカイアカイアサヒアサヒ」は、掲載された朝日ジャーナルが回収される事件にもなりました。
イラストを描き始める前から関心を持っていたのが、つげ義春や水木しげるなどの漫画。自身も漫画を描いており、展覧会では赤瀬川さんの初の劇画作品「お座敷」も紹介されています。
実は、赤瀬川さんは1960年~62年頃に丹青社で働いていました。その時に身につけたレタリングの技術を活かし、ロゴや文字デザインなどの仕事も手掛けています。
第6章「『櫻画報』とパロディ・ジャーナリズム」70年代以降の赤瀬川さんの代表的な活動のひとつが「超芸術トマソン」です。
上がって下りるだけで建物に入る事ができない階段など、機能を失いながらも美しく保存されている物体。要するに「無用の長物」を、鳴り物入りで読売ジャイアンツに入団しながら三振の山を築いたゲーリー・トマソンから命名しました。
「芸術」の枠組みにしばられない自由な視線は、赤瀬川さんの一貫したスタイルです。
第9章「トマソンから路上観察へ」展覧会の最後は、縄文建築団以後の活動です。自宅兼アトリエの「ニラハウス」では、建築作業にも従事。美術史家の山下裕二さんとの対談から「日本美術応援団」を結成。1998年には「老人力」を発表し、当時の筑摩書房はじまって以来の大ベストセラーとなりました。
展覧会の最後は、ニラハウスのリビングルームに置かれていた油彩画。赤瀬川さんが所有する引伸機(写真フィルムを印画紙に焼く機械)をモノトーンで描いた、未完の作品です。
第10章「ライカ同盟と中古カメラ」~第11章「縄文建築団以後の活動」前衛芸術から路上観察まで。その歩みを通してみると、興味の対象に鋭く切り込みながらも、どこかで一歩離れて全体を俯瞰しているような冷静さも感じます。「赤瀬川さんは、いろいろやったよように見えて実はひとつの事をやっていた人なのではないか」という図録の南伸坊さんのコメントには膝を打ちました。
千葉展の後には
大分市美術館(2015年1月7日~2月22日)、
広島市現代美術館(2015年3月21日~5月31日)に巡回します。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2014年10月29日 ]