吉原遊郭の妓楼・和泉屋を舞台に、暗闇の中に浮かび上がる遊女と客を描いた肉筆浮世絵《吉原格子先之図》。大胆な陰影を用いた幻想的な光景は、一般的な浮世絵のイメージとは大きく異なります。
主役である中央の遊女は黒いシルエットで描かれていますが、手前に提灯があるので、本来は顔が見えるはず。他の陰影は正確なので、あえて影で表現していることが分かります。
室内の遊女は格子が邪魔をして、顔は見え隠れするのみ。はっきりと顔が見える右上の遊女は、鼻にもきちんと立体感が表現されています。
応為の作品には署名が無いものも多いのですが、こちらは署名がはっきりしています。提灯に絵師としての名前「應」「為」と、本名である「栄」が記されています。
葛飾応為《吉原格子先之図》北斎の末娘だった応為。生まれは1801年頃、没したのは1866年頃と推定されますが、詳しいことは分かっていません。絵師の南沢等明(みなみざわとうめい)に嫁ぎますが、後に離縁。自分より拙い等明の絵を笑ったと伝えられるので、あるいはその男勝りの性格が離婚の理由かもしれません。
出戻った後には、父の北斎と同居します。北斎はズボラな一面がありゴミ屋敷に住んでいたと言われますが、応為も小さなことにこだわらない豪胆な性格。二人は気があったのか、北斎を「おーい」と呼んでいたのが、画号の「応為」になったという説もあります。対する北斎は、顎が出ていた応為のことを「アゴ」と呼んでいました。
女子力には疑問が残る応為ですが、絵師としての実力は、北斎が「余の美人画は、阿栄におよばざるなり」と語ったほど。同時代の美人画の名手、渓斎英泉(けいさいえいせん)も応為のずば抜けた力量を評価する言葉を残しています。
残念ながら、応為の遺作は数えるほどしか確認されていません。晩年の北斎を助けていたため、北斎80代の作品は応為の代筆が含まれているとも言われています。
応為の名前が記された数少ない版本のひとつ、高井蘭山著/葛飾応為画《女重宝記》。署名に「かつしか應為酔女筆」とあり、酒好きだったことが分かります(北斎は飲みませんでした)光と影の表現が特徴的な《吉原格子先之図》にあわせ、会場では北斎一門による陰影表現や洋風表現の作品、また、江戸時代後期に活躍した国芳・広重・国貞、明治時代の小林清親なども紹介されています。さまざまな浮世絵師による光と影の捉え方をご覧ください。
会場風景実は、2014年は葛飾応為のあたり年。東京展の展示は終わってしまいましたが「大浮世絵展」では《夜桜美人図》が展示され、名古屋・神戸・北九州・上野と巡回する「ボストン美術館浮世絵名品展 北斎」では《三曲合奏図》と、本展をあわせて応為の代表作が三点も見ることができるのです。
《吉原格子先之図》はあまり大きくない作品(26.3cm×39.8cm)のため、細部はウェブでは分かりにくいかもしれません。ぜひ会場でご確認ください。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2014年1月31日 ]