60年をゆうに超える長いキャリアの中から、ベルギー王立美術館が所蔵する作品を中心に計80件を紹介する本展。会場は5章で構成されています。
1927年、ブリュッセルで医師の一人息子として生まれたアレシンスキー。左利きでしたが学校で矯正され、文字は右手で、絵は左手で書くようになりました。1949年に前衛芸術集団「コブラ」に参画、コブラは短命に終わりましたが、若いアレシンスキーは大いに刺激を受けました。
第1章「コブラに加わって」第2章は「「書く」から「描く」へ」。アレシンスキーは1952年から京都で書道の雑誌「墨美」を主宰していた前衛書道家の森田子龍と文通を開始。1955年には来日し、短編映画「日本の書」も制作しています。
この頃、中国系米国人アーティストのウォレス・ティンと出会ったアレシンスキー。床に紙を置き、身体全体を使って描く手法をはじめます。
第2章「「書く」から「描く」へ」第3章は「取囲まれた図像」。60年代中ごろにアレシンスキーは「下部挿画(プレデラ)」というスタイルを始めます。画面の上部にメインのイメージが描かれ、下部にはそのイメージを補完するような別のイメージが帯状に挿入されたもので、西洋絵画の伝統的な手法でもあります。
第3章「取囲まれた図像」第4章は「記憶の彼方に」。1983年以降、アレシンスキーは拓本を制作に取り入れるようになります。対象物を擦って図像を得るこの手法で、アレシンスキーはマンホールの蓋や消火栓、鉄格子などから作品を生み出しています。
第4章「記憶の彼方に」第5章は「おとろえぬ想像力」。アレシンスキーは展覧会開幕日に89歳を迎えましたが、力強い制作は全く揺るぎません。最終章には、2015年に制作された作品も紹介されています。
第5章「おとろえぬ想像力」前述した前衛書道との関わりのほか、禅の画家・仙厓を師と仰ぐなど、実は日本とも関係が深いアレシンスキー。独自のスタイルを持ちながらも、常に新しい表現を模索する姿勢も素晴らしいと思います。
Bunkamura ザ・ミュージアムでの開催は12月8日まで、年明けからは国立国際美術館に巡回します(2017年1月28日~4月9日)。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2016年10月18日 ]■ピエール・アレシンスキー展 に関するツイート