目にしたものを、そのまま写す写真。ただ、写真を使った表現が、事実を示しているとは限りません。国策に同調した写真は、どのように利用されたのか。資料約1,000点で展観する企画展です。
会場は年代順の構成で、まずは日本文化を紹介する数々の写真から。1940年の東京五輪を前にした日本が、外国人の興味をひきそうな伝統文化の写真を外客誘致に使う手法は、驚くほど現在に似ています。
まだ軍事力を強調する表現はさほど見られませんが、時代的には国際連盟からの脱退、日中戦争開戦と、国際社会から徐々に孤立していった頃。表現はソフトでも、近代性も示す事で「アジアの盟主」である事を主張しています。
文化面から日本の独自性をアピール。若き原節子のポートレートも欧米との対立は決定的になり、ついに全面戦争へ。写真家たちも積極的に国策への関与、すなわち強く逞しい日本のイメージ作りに関わっていきます。
壁一面に展示されているのは、大衆向けのグラフ誌「写真週報」。物資不足(綴じ金具の節約)のため、途中からは無綴になるなど、敗北への道程は明らかです。戦時標語コーナー「時の立札」には、今ではギャグとしか思えない言葉が並びます。
主に大東亜共栄圏向けに各国語版で作られた「FRONT」は、高いデザイン性でも知られます。FRONT10冊目「戦時東京号」は、発行準備中に空襲で焼失しましたが、会場では残されていた校正刷りを展示。戦時下の女性をファッション雑誌風にしたページは、現実との乖離を思うと痛々しく見えます。
壁一面の「写真週報」は圧巻。1944年からは全土が本格的な空襲に晒され、主要都市は焼け野原に。もちろんこれらの写真も意図があり、被爆直後の長崎も「残虐性を示し対敵宣伝に利用する」ために撮影されました。
そして、降伏。「写真で国に報いる」と豪語していた写真家やデザイナーが、一転して占領軍側にすり寄った誌面作りに関わっていく模様は、時代性を考慮しても釈然としない思いが残ります。
広島県観光協会が刊行した『LIVING HIROSHIMA』は、広島の復興と観光名所のPR誌。その誌面にも原爆を投下した側への配慮が感じられます。
終戦から戦後。内容は一変しましたが、作っているメンバーは同じです。戦いは第二次世界大戦で終わったわけではありません。冷戦下で西側に組み込まれた日本は、米国との同調を余儀なくされます。
1954年のビキニ被爆で日本の反核運動が芽生える契機になりますが、米国の宣伝機関は日本の新聞社などと組んで「原子力平和利用博覧会」を全国で開催。なんとこの博覧会は、広島平和記念資料館でも開催されています(1956年)。
米の写真家エドワード・スタイケンが企画し、日本に巡回した写真展「ザ・ファミリー・オブ・マン」。人類がひとつの家族である事をうたいましたが、その本質は米国型社会の礼賛にほかなりません。この展覧会には昭和天皇が訪れた際、展示されていた被爆地の写真が急遽カーテンで隠されるという事件も起こっています。
会場の最後は、昭和天皇が見る前に隠された「ザ・ファミリー・オブ・マン」の写真パネル(再現)本展の動線は、最後のコーナーを見た後にカーテンを開けて進むと、最初のコーナーに戻ってから出口へ、という流れ。つまり戦後まで進んだつもりなのに、なぜか戦前に戻っているというストーリーです。
さまざまな示唆を含んだ、超骨太の展覧会です。息苦しくなる思いを堪えながら、私は会場を4周しました。巡回の予定はないため、
IZU PHOTO MUSEUMだけでの開催です。躊躇している場合ではありません。
ミュージアムがあるクレマチスの丘には、他にも個性的な3館があります。お子様連れなら、
ベルナール・ビュフェ美術館にある「ビュフェこども美術館」、かなりオススメです。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2016年1月9日 ]