展覧会は時代順の4章構成ですが、現在から過去に遡っていくスタイル。第Ⅰ章では1990年代から現在までの作品が紹介されます。
オノさんといえば、社会に向けたメッセージ性の強い作品。近作の《クリケット・メモリーズ》も、吊るされた虫籠に、広島やサラエボなどの都市名と、大きな出来事が起きた日付が刻印されています。
銃弾が撃ち込まれたガラスの作品は、《穴》。添えられたメッセージ「GO TO THE OTHER SIDE OF THE GLASS AND SEE THROUGH THE HOLE.(ガラスの反対側に行き、穴から見てごらん)」で、撃つ方と撃たれる方の関係に切り込みます。
第Ⅰ章第Ⅱ章は60年代後半から。ジョン・レノンと69年に結婚したオノさんは、ベトナム戦争に対する反戦運動に積極的に参画。69年の師走には世界12都市に広告ポスターなどを掲示する平和キャンペーンを展開し、東京でも12月24日に行われたイベント「ジョン=ヨーコ・レノンのよびかける平和クリスマス」で、日比谷野外音楽堂から東京駅までデモ行進が行われています。
オノさんの活動は反戦にとどまらず、女性や環境の問題にも拡大。分かりやすくユーモアあふれる手法を用いて、広く社会に対して問題を提起していきました。1974年にはプラスティック・オノ・スーパー・バンドを率いて来日。10年ぶりに日本のステージにも立っています。
第Ⅱ章第Ⅲ章は60年代前半。61年にニューヨークで個展と個人演奏会を初開催し、本格的に芸術家としての活動を始めたオノさん。1962年には10年ぶりに帰国し、64年までに草月会館ホールや内科画廊(ともに東京)、山一ホール(京都)など、日本国内で精力的に活動します。
言葉を使ったコンセプチュアル・アートの作品集《グレープフルーツ》、オノさんの衣装を観客がはさみで切り取っていくパフォーマンス《カット・ピース》など、オノさんを代表する作品が発表されたのもこの時期です。ジョン・レノンの名曲「イマジン」が《グレープフルーツ》から発想された事も良く知られています。
《私たちはみんな水》は近年の作品ですが、順路的にはここで登場します。水が入った器の前には、著名人の名前。人間の成分は、ほとんどが水。蒸発すれば、皆同じです。
第Ⅲ章最終の第Ⅳ章は、最初期の作品。芸術家としてスタートする前まで遡り、その発想の源に迫ります。
幼少期のオノさんは、父の赴任に伴って2度渡米。開戦前に帰国し、1952年までの10年間は東京で暮らしました。幼稚園は自由学園、ロシア人芸術家を姻戚には持つなど、独自の感性が磨かれるに相応しい環境で育ちました。
テキスト《無音の音楽》と英文の詩画集《見えない花》は19歳の時の作品で、展覧会初公開。現在まで繋がる創作のスタイルが、早くも現れている事がわかります。
プレス内覧会にはオノ・ヨーコさんも出席。展覧会開催後には83歳を迎えるオノさんですが、背筋をピンと伸ばして平和について熱く語る姿が印象的でした。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2015年11月9日 ] | | 今を生きる
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