恩地孝四郎と藤森静雄は1891年、田中恭吉は翌年生まれ。三人の中では田中と藤森がまず親しくなり、回覧雑誌「ホクト」をともに編纂。竹久夢二と交流があった恩地は、夢二を慕った若者同士として田中との交流が深まっていきました。
田中は1913年に、個人作品集「密室」を制作。後に「密室」は複数の作家が関わる回覧雑誌となり、藤森らホクトのメンバーのほか、恩地も参加しています。
ただ、この時点での彼等の作品はペン画などが主で、三人の周辺でいち早く自刻木版画に目覚めたのは田中と同い年の香山小鳥でした。香山は結核のため、1913年6月に21歳で死去。同年10月に同じ病に見舞われた田中は、香山の事を想ったのでしょうか。ほどなく香山が愛した自刻木版画に進む事になります。
1章「つくはえ前夜」洋画や日本画などと異なり、自刻木版画は当時の美術界で主流とはいえない分野でしたが、田中が引き込まれた木版画の世界に恩地と藤森も同調。三人は協同で木版画集を出す事となりました。
木版画集の名前は「曼陀羅」や「波羅蜜」などを退けて『月映』に決定。公刊に先だって3部限定の『月映』が作られ、これらは私輯(ししゅう)と呼ばれています。私輯『月映』は1914年の4月頃~7月にかけて6輯まで発行されましたが、田中は5月に再び喀血、10月にも大喀血し、病状は深刻さを増していきます。
2章「『月映』誕生」公刊『月映』の創刊号は、1914年9月に刊行。田中の病状を心配し、予定を繰り上げて出版されました。
公刊『月映』は自刻木版を機械で刷って制作され、発行部数は200部ほど。恩地と藤森はそれぞれの個性を追及した木版画を制作、病床の田中は木版画こそ多くは作れませんでしたが、詩歌数多く発表しました。展覧会も開催するなど奮闘を続けましたが、残念ながら活動を継続できるほどの売れ行きにはならず、7冊目は「告別輯」として刊行され、その活動に終止符が打たれました。
3章「『月映』出版」最終号「第Ⅶ輯 告別」の発行を間近に控えた10月23日、田中は23歳の若さで死去。当時の結核は、まさに死の病でした。(ちなみに、藤森の妹・芳子も結核のために17歳で死去。その死を悼み、公刊『月映』Ⅳは「死によりてあげらるる生」と題して発行されました)
仲間と『月映』を同時に失ったふたり。その後の藤森は福岡・台湾・東京で活躍。恩地は画家・版画家・装幀家・詩人として歩みましたが、二人とも生涯、自刻木版画の制作は止めませんでした。
4章「『月映』のゆくえ」素朴な技法ゆえに、作家の胸のうちがそのまま滲み出るかのような自刻木版画。小さな作品ですが、一点一点見ていくと胸にずっしりと響いてきます。宇都宮、和歌山、愛知と巡回し、
東京ステーションギャラリーが最終会場です。お見逃しなく。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2015年9月18日 ]※会期中に展示替えがあります