五姓田義松は江戸生まれ。1865年に、横浜居留地にいた英国人報道画家のチャールズ・ワーグマンに入門します。この時わずか10歳、ちなみに高橋由一は翌年に37歳でワーグマンに入門しています。
義松が学んだ「洋画」は、油彩画だけではありません。初歩の鉛筆画、次の段階の水彩画も、当時の日本には無かった技術であり、いずれも「洋画」。義松は鉛筆画や水彩画でも対象を的確に捉えており、その作品からは並外れた技術を垣間見る事ができます。
書簡や家計簿などの史料も揃え、義松の実像に迫ります。作品は鉛筆画・水彩画から。初公開作品も含まれ、点数も膨大です師のワーグマンは油彩が得意ではありませんでしたが、義松は1871(明治4)年頃までに油彩画の技術を身に着けて独立。16歳にして横浜居留地の西洋人達に絵を売り、稼ぎを得るようになります。
会場で紹介されている油彩は、年代順に作品が並ぶコーナーが見もの。義松は油彩を始めた頃から精度の高い作品を描いていますが、1880(明治13)からのフランス滞在で、さらにテクニックに磨きがかかります。
洋画のコーナーには、原敬の肖像も。義松と原敬は一歳違いで、パリ時代からの友人だったと考えられています義松は家族との絆が強く、家族を描いた作品も数多く残しています。父は武士であり、画家でもあった五姓田芳柳。母の勢子は絵画の販売記録をまとめるなど、義松の生活を支えました。年子の妹・渡辺幽香も画家で、シカゴ万博に作品をするなど活躍しました。
注目は、独立ケースで展示されている2点の油彩。母や妹、弟子たちが揃った《五姓田一家之図》は、1872(明治5)年頃の作品。左端でスケッチをしているのは幽香です。亡くなる直前の母を描いた《老母図》は、1875(明治8)年の作品。明治ひと桁に描かれた日本の洋画は極めて珍しく(高橋由一の「鮭」も明治10年頃の作品です)、日本美術史の上でも重要な作品といえます。
動画最後に《五姓田一家之図》と《老母図》会場最後の《自画像》は、義松が21歳の時の作品。義松はこの作品と《阿部川富士図》を第1回内国勧業博覧会に出品し、鳳紋賞を受賞。頂点を極めた自信は、描かれた表情からも見て取れます。
一方の《六面相》は鉛筆スケッチの自画像。表情のユニークさが印象に残りますが、妙な顔つきでも筋肉の動きを着実にとらえる描写力は、まさに天才的。嬉々として鉛筆を走らせる姿が目に浮かびます。
紙が貴重だったこの時代。両面に描かれたスケッチ類も紹介されています渡仏翌年に日本人として初めてサロンで入選した義松。その実力が世界レベルである事を証明しましたが、時代はすでに外光派が主流になりつつありました。
日本の洋画壇は、黒田清輝が中心に。新しい表現が求められる時代において、帰国後の義松が第一線に立つことはありませんでした。ただ、それでも絵の道だけを進み続けた義松。土産として求められた「横浜絵」を描きながら、1915(大正4)年に60歳で死去するまで、画家としての生涯を貫いています。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2015年9月24日 ]■五姓田義松 最後の天才 に関するツイート