軍において、司令部はどこに置くべきか。旧日本海軍では創設以来、連合艦隊司令部は洋上の最前線に置くのが通例でした。
それを象徴するのが、展示室に入るとすぐに目に入る「三笠艦橋の図」。日露戦争で旗艦三笠で東郷平八郎が陣頭指揮をとりバルチック艦隊を撃破した事から、司令長官は最前線に立つべき、とみなされたのです。
ただ、太平洋戦争では司令部も大型化。戦局が悪化すると司令部が置かれていた艦船も戦闘に使われる事となり、陸上に移転せざるを得なくなりました。
いくつかの候補地の中から選ばれたのが、横浜・日吉地区。当時「東洋一」といわれた慶應義塾大学の学生用寄宿舎が使える事も決め手になり(学生は動員されていました)、1944年9月、連合艦隊司令部は正式に日吉に移転されました。
会場入口から寄宿舎の地下には大規模な地下壕が掘削され、外部との通信は基本的に地下壕で行われました。
ただ、司令部が移転した時は、サイパン・グアムが陥落し、東條内閣も総辞職。考案される作戦も「連合国をいかに食い止めるか」という防衛一色となっていきます。
地下壕に残された資料は多くありませんが、中には当時を偲ばせる遺物も。悲劇的な指令が行き来した無線機のケーブル、「壕内は昼のように明るかった」という証言を裏付ける蛍光灯のプラグ、陶器の破片からは当時の小便器の品番も断定されています。
地下壕に残された遺物など終戦に有利な条件を引き出す「最後の一矢」として考案された作戦のひとつが、特別攻撃隊(特攻)。もちろん、日吉の連合艦隊司令部も、無線を通じて状況を把握していました。
初の特攻が出撃したのは、1944年10月25日。最初の攻撃を行った敷島隊の通信記録を、この地で傍受していたという通信兵の証言も残っています。
証言によると、立て続けにモールス信号を鳴らす「ト連送」が、突撃に向かう合図。最後は「ツー」の音が出しっぱなしに。それが途切れた時は、終わった時です。
特別攻撃隊の関連資料戦艦大和の沖縄への出撃も、日吉から出された悲劇的な作戦のひとつです。本土決戦の準備期間をとるため、沖縄で時間を稼ぐための海上特攻。連合艦隊司令部の草鹿龍之介参謀長が日吉から最前線の戦艦大和に作戦を伝達し、「一億総特攻の魁(さきがけ)」として無謀を承知で出撃しました。
1945年4月7日、大和は沖縄に到達する前に爆沈。沈みゆく大和も、無線を通じて日吉に伝わっていました。
その後、本土への空襲も激化。8月15日の玉音放送は日吉でも流され、寄宿舎の前などで聞いたという証言が残ります。
戦艦大和や空襲・終戦の関連資料本展は、2011~2013年に慶應義塾大学と
神奈川県立歴史博物館が共同で行った遺構調査等の成果を紹介するもの。ちょうど終戦70年というタイミングでの開催となりました。
「艦これ」から「積極的平和主義」まで、従来と違う次元で‘軍隊’が意識される時代。個人のイデオロギーは様々でしょうが、とりあえずそれは横に置いた上で、まずは残された遺物から往時を想像していただければと思います。
最後に、担当学芸員の千葉毅さんはとてもユニーク。お時間があえば、展示解説もお聴き逃しなく。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2015年2月2日 ]■陸にあがった海軍 に関するツイート