明治37年、大分生まれの伊藤彦造。伊藤家の先祖は一刀流の開祖として知られる剣豪・伊藤一刀斎で、彦造も幼い頃から父から剣の手ほどきを受けて育ちました。
大阪朝日新聞で挿絵画家としてデビュー。行友李風(ゆきともりふう)の新聞小説「修羅八荒」(しゅらはっこう)の挿絵で爆発的な人気を獲得し、多くの雑誌に活躍の場を広げていきました。
彦造の作品から漂う独特の緊迫感は、剣による立ち合いを熟知していたため。構図の研究にも余念が無く、門下生らを使ってポーズ写真を撮影し、作画の参考にしていました。
会場には、門下生らを使ったポーズ写真も彦造を語る上で、戦中の活動は外せません。満州事件が起きた昭和6年、彦造は憂国の情を訴えるために、自らの身体55箇所を傷つけて、己の鮮血で「神武天皇御東征の図」を描いています(現存しませんが、写真類が展示されています)。これをきっかけに陸軍大将の荒木貞夫と親交を持ち、陸軍嘱託として戦線の視察も行いました。
会場で特に目立つ大きな屏風は「アッツ島 山崎部隊長」。実在の人物をモデルに玉砕した日本軍を描いた作品です。残念ながら未完ですが、兵士の声が聞こえてくるような迫力があります。
大きな屏風は「アッツ島 山崎部隊長」戦後、一時は戦犯として米軍に収容された彦造。復帰後は大人向けの大衆娯楽雑誌など、以前には見られなかったジャンルも手掛けました。
見る人を圧倒する彦造の作品ですが、実は彦造はデビュー当時から片目が見えないという大きなハンデキャップがありました。
隻眼では物の前後を捉えることが困難ですが、彦造作品の奥行き表現は見事。たゆまぬ努力と情熱で、画力を会得していったのです。
精密な描写が光る、伊藤彦造のペン画会場の後半には、本展で初公開となる愛用品と身の回りの品々も紹介されています。長女の初節句で揃えた豪華な雛飾りのほか、祖父から受け継いだ真剣など、貴重な資料が並びます。
自ら最後の仕事として手がけたのが、昭和44年から翌年にかけて描いた「吉川英治全集」のカラー口絵。以降は請われても挿絵を描くことはなく、自らの意思を貫き通すのは、「画人ではなく武人」と語っていた彦造らしい生きざまです。
没したのは最後の仕事から約30年後の平成16(2004)年。ちょうど満100歳の生涯でした。
愛用品と身の回りの品々も実は
弥生美術館で伊藤彦造展が開催されるのは平成3年、6年、11年、15年、18に続いて6回目。熱心なファンが多いのも特徴的で、取材時にも平日の朝からじっくりと作品を見て回る方がいらっしゃいました。
本展では開催にあわせて、河出書房新社から「伊藤彦造: 降臨!神業絵師」が一般書籍として刊行されています。あわせてお楽しみください。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2014年1月7日 ]