3章構成の本展。五輪の前、五輪の開催中、五輪の後と、時間を追って紹介していきます。
第1章は「東京オリンピックの準備 シンボルマークとポスター」。東京オリンピックの開催が決まったのは1959年、翌年には「デザイン懇談会」が組織され、デザインポリシーが決められました。ただ、懇親会は徐々に機能しなくなり、開催前年になって「デザイン室」が新設。プロジェクトチームに分かれて各種のデザインが進められました。
東京オリンピックのデザインワークとしてすぐ思い起こされるのは、亀倉雄策によるポスター。短距離のスタートを真横からとらえた1枚は、日本デザイン史に残る傑作と評されています。
第1章「東京オリンピックの準備 シンボルマークとポスター」
オリンピックのシンボルマークは、河野鷹思、亀倉雄策、杉浦康平、田中一光、永井一正、稲垣行一郎の6人による指名コンペで争われ、亀倉のデザインが選ばれました。シンプルながら強烈な印象のマークは、絶大な効果を生み出しました。
このコンペについては、亀倉は締切当日まで提出を忘れていて、組織委員会からの電話を受けて2時間で仕上げたというエピソードも残っています。会場には他のデザイナーの案も紹介されているので、比べて見てください。
亀倉雄策とシンボルマーク、そして他のデザイナー案
第2章は「東京オリンピックの開幕 視覚伝達システムの確立」。田中一光がデザインしたタッグ(荷札)、原弘によるIDカードなど、開催中に使われたグッズが並びます。
非西欧文明圏で初めて開催された東京オリンピック。93カ国から関係者を迎え入れるために、言葉以外で情報を伝達する方法として、ピクトグラム(当時は「アイソタイプ」「絵文字」などと呼ばれていました)が用いられました。
実は国際行事で全面的にピクトが使われたのは、東京オリンピックがはじめて。その後ピクトの使用が一般的になったことを考えると、その先進性は光ります。
第2章「東京オリンピックの開幕 視覚伝達システムの確立」
第3章は「東京オリンピックの記録/記憶 メディアイベントとして」。テレビをはじめとしたメディアにより、東京オリンピックは競技会場で直接試合を見ていない人にも、強い記憶として残されました。
制作が義務付けられている公式報告書は、原弘による装丁。市川崑が監督した芸術性の高い記録映画は担当大臣の河野一郎が「記録性に欠ける」と批判し、「芸術か記録か」という論争に発展したのも良く知られるところです。ちなみに映画は大ヒットし、約8億円の剰余金を生み出しました。
第3章「東京オリンピックの記録/記憶 メディアイベントとして」
大阪万博とクリエイターの関係(岡本太郎や丹下健三など)に言及した展示は時おり見られますが、東京五輪とデザイナーの関係に着目した展示は画期的です。
東京国立近代美術館の工芸課による企画展。会場はギャラリー4だけと小規模ですが、日本のデザイン界が総力戦で立ち向かっていった熱気が伝わってきます。(取材:2013年2月13日)